運命の輪



               森田カオル


 ふと立ち寄ったバーで、私は時間を遡る奇
跡を体験した。時計は一分前の時刻を示し、
灰皿の煙草も吸う前に戻っていた。トリック
を疑う余地は無かった。奇跡を起こしたのは、
一人の老紳士であった。
「自分が辿ってきた人生、選択肢を誤ってき
たのでは、と考えていませんか?」
 紳士は私の胸の奥に潜む鉛のような思いを、
あたかも以前から知っていように指摘した。
私は妻一人養う事もままならないワーキング
プア。小さな学習塾の契約講師である。
「二十年位戻ってみたいと思いませんか」
 紳士の誘いに、私は鼓動が高まるのを感じ
た。だが、同時にある事に気が付いた。
「過去に戻ったら、今のこの世界は、この時
間の世界は、いったいどうなるのですか」
「この時間の世界は変わりません。歴史は連
続します。あなたが突然行方不明になる、と
いうだけです」
「すると、私の妻は……」
「独りで生きていくことになるでしょう」
 私は拳を眉間に押し付け目を瞑った。葛藤
が続いた。そして、一つの決心に辿り着いた。
「このままでいます。私の独善で、妻を泣か
すことはできません」
 それを聞いた紳士は、莞爾として言った。
「よくぞ気が付きました。前回、あなたは自
分の願望のまま行動してしまったのです。覚
えていらっしゃらないでしょうけど」
「前回?」
「そう、前回お会いした時、あなたは人生を
やり直したいという願望だけでした。係累の
ある人たちにまで考えが及ばなかった……」
 その時、次に彼から発せられる言葉が何か、
直感した。冷たい汗が背中を滴っていった。
「今のあなたの人生、既に二回目なのですよ」
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