小説第1話⑤
目覚めてから、レイナは、暫く現状把握に戸惑っていた。
目覚めたことは自覚していたが、違和感があった。
そうだ、私は、アジーの命と引き換えに、屠られるはずだ。
でも、今目覚めているということは、まだ生きているのか。
窓から陽光がさしているようで、濃い象牙色の窓幕は黄金色の光に縁どられている。
日は高く昇っているようであった。窓辺には熱気が籠っていた。
起き上がろうと手をついて、激痛を覚えた。右手の中指から手首にかけて包帯が巻かれている。
手当がされている。常識的に殺す人間のけがの手当はしないだろう。ということは、自分は「生かされている」ということである。
脳裏にアジーの面影が浮かんだ。
まさか、アジーが代わりに屠られたのか。
蜂の女は、約束は守るといったではないか。どういうことなのだ。
部屋を見回してみる。
四角い部屋の一面には、半間四方ほどの窓がある。部屋は、全てそこから差し込む光とその反射光に照らし出されている。直行する壁と天井は杉板張りのようである。
床は畳であった。その上に夜具が敷かれ、レイナは横たわっていたのであった。
起き上がって窓幕を少しめくってみる。硝子窓であったが、その外には目の細かい格子が嵌め込んである。その向こうには半間ほどの空間、そして、安山岩のような黒い石組の壁が見えた。
畳を持ち上げてみようとしたが、やめた。窓に格子が嵌っているくらいだから、床も塞がれているに違いない。
窓に対する壁面。そこには小さな潜り戸がある。木製だが、鉄板で補強されている。
部屋の広さは四畳半ほどで、窓の横には衝立が置かれている。見ると、雪隠があった。
座敷牢なのであった。
ふと、自分の着衣を見た。
厚手の晒し木綿の襦袢のみで、肌着も下帯も着けていなかった。その襦袢も、前の袷を三寸ほどのひもで三か所留めるようになっているだけで、帯は着けていない。
夜具ですら、厚手の不織布と毛布で作られている。包帯も、よく見ると、不織布で、糊のような物質で保定されている。
紐や、紐状に加工できる衣類は排除されているのであった。
扉の向こうに人の動く気配がした。鍵を開ける音が聞こえた。
「食事です。自分で下の窓を開けて取り出してください」
若い男の声だった。言葉は丁寧であったが、事務的な口調であった。
「アジーはどうなったか、教えてくれないか」
レイナは努めて平静を装って尋ねた。
「質問は一切受けません。悪しからず」
威圧的な命令口調よりはましであるが、やはり、口調の冷たさに変わりはない。
囚われの身である以上、こちらは受け身の立場しか許されていない。それは仕方のないことなのだ。
ただ、アジーが殺されてしまったのなら、自分も舌を噛んで死ぬ覚悟は、できていた。
だが、もし約束通り、アジーが逃がされていたなら、死にたくはない。生きて再会したい。彼の胸に飛び込んでいきたいと思うのであった。
しかし、今はそれを知る手だてもない。
状況から鑑みるに、この先彼女を待つ運命は、二とおりしかないと思われた。
一つは、公開処刑。これは考えられることであった。
もう一つ、それは、二人とも見逃されること。
これも、考えられなくはなかった。
<蜂>はむやみに<十字星>を殺さない。
しかし、蜂にやられたとみられる躯も見つかっている。だから、これも確実ではない。
言われるまま小窓を開けると、質素ではあるが、一通り整ったまともな食事が、膳に並べて差し出された。
白米、炙ったえぼ鯛の干物、香の物は、蕪の浅漬けと、大きな梅干しである。それに、椀物は茄子の味噌汁。どれも湯気を立てるほど熱い出来立てである。味噌汁を一口すすると、山椒のほのかな香りがした。
武家のごく普通の、いや、ある程度上家の朝食である。
食事のみを見れば、客人の扱いであった。
レイナは冷静に考えることにした。
処刑する者に与える食事にしては、厚遇ではないか。逆に、屠られる者への温情とも受け取れるが。包帯も丁寧に巻かれているし、鈍痛は残っているが、顔を顰めるほどの痛みは、今のところない。
利き腕は使えなかったが、左手をある程度使える訓練をしてある。レイナは左手で箸を操り、干物の骨を剥がしにかかる。焼きたての干物の骨は難なく身から剥がされた。
骨に張り付いている、皮のような内側の身を剥がして、元の身の上に置く。その向こう側に、きれいに剥がされた骨を置く。
囚われの身であるが、食事の作法は守りたいのであった。
裕福ではなかったが、武家の誇りを重んじる家であったと、レイナは幼い頃を思い出していた。
厳しかったが情には厚い父。病弱だったが、決して暗い顔を見せなかった母。一人子ではあったが、友達も多く、寂しさは感じなかった。
だが、あの事件以来、彼女は世間の冷たさを嫌というほど思い知らされた。
父は公金横領の容疑で投獄され、獄死したのである。
病死のわけがなかった。拷問で死んだのであろうが、ついにそれは公表されなかった。容疑は直ちに事実に変えられた。死人に口なしで、彼女の父にすべての咎が振り向けられたのである
だが、彼女の家は取り潰されなかった。温情裁定だということだったが、後の噂では、その裁定を下した評定所の長官の友人が、横領の張本人だったのである。濡れ衣をかけた詫びのつもりか、身代わりになった父への罪悪感からかは知らない。母は父の死後半年も経たぬうちに亡くなった。すっかり衰弱していたからであった。
まだ十歳だったレイナは、とある商家の養女に迎えられたが、養女とは名ばかりで、学校へ通えたこと以外は実質下働きと同じであった。
彼女が十三歳の時、その家の主が彼女に手を付けた。激しい抵抗も空しくなすがままにされるしかなかった。
だが、二度目の時、彼女は用意してあった簪で主人の目と男根を刺して逃走した。計画した逃走であった。
逃走先は、学校の教師の家。この女教師が、実は十字星の情報屋であった。レイナの明晰さを知っており、事情も知るところであったから、次に何かあったときは、と指示を与えておいたのだ。
レイナの主人は以前から年端もいかぬ娘に手を出す悪癖があり、今回の事件でそれが明るみに出ることとなった。今までも幾度か悪行が日の下にさらされる危機はあったが、全ては金の力で闇に葬ってきたのであった。
主人は一命は取り留めたものの、寧ろ、死んでしまった方がよかったかも知れなかった。蟄居を命じられ、息子が家督を継いだが、元より放蕩息子で全く役に立たないため、番頭が一切を取り仕切り、今は父同様蟄居の憂き目にあっている。
事後の全ての情報は、レイナ自身が探り当てた物であった。
その事件以来、レイナは十字星で学び、鍛えられ、やがて手下を何人も使う地位になっていたのである。
凌辱を受けたあの日以来、男を一切遠ざけて生きてきた。アジーにしても、役目はそつなくこなすものの、男としてはまだ頼りないだけに、異性として意識したこともなかった。
それが、今こうして運命共同体になろうとは、昨日までは夢にも思っていなかった。
昨日、という言葉が思い浮かび、思わず緊張した。
本当に昨日か。実は幾晩も眠っていたのではないか。
普段剃刀で毛をあたっている部分を指で探ってみた。一晩で伸びる長さではなかった。丸一日、あるいは二日は眠っていたようであった。
はしたない仕草に我に返り、再び膳に向かう。責められて押し広げられた股関節の痛みは少し残っていた。縛られていた腕も、かさぶたが固くなっている。そして、無性に腹が減っていた。
己の生を意識した途端、空腹を感じる自分に苦笑した。
まさか、こんな牢屋の中で、飯をうまいと感じようなどとは想像だにしていなかった。今、彼女は目の前の膳の食べ物を口に運ぶことに集中していた。
気を失う前まで、己の命を投げ出す覚悟を決めていた人間だとは思えぬな、と彼女は苦笑した。
膳の物を平らげ、小用を済ませると、再び眠気が襲ってきた。もしや一服盛られたのか、と思い、意識を集中する。だが、落ちてしまうものでもない。単なる眠気のようであった。小窓の向こうで、膳が下げられる音がする。続いて、木の盆に載った水と包薬が小窓から出てきた。
「化膿止めと痛み止めだ。飲まないのも自由だが、飲んでおいた方が良いぞ」
さっきの男の声ではなかった。責めを受けていたとき、背後から聞こえていた、あの女の声だ。
「なぜ殺さない」
とっさにレイナの口をついて出た言葉であった。
向こうの人物の気配は、しかしそれを無視して遠ざかっていった。
水の碗は、厚手の白い樹脂でできており。割れそうな代物ではない。
癪ではあったが、素直に従うことにした。
そして、自然に訪れた眠気のまま、午睡に落ちた。
次に目覚めた時、牢の中は暗かった。ただ、間接光で天井が仄明るく照らし出されていた。
目が回る感覚があるが、痛みは軽くなっていた。日中の薬のせいかと思われた。
汗で体中が粘つくような感触であった。しかし室温は汗ばむ程には感じられない。寝汗であった。
夜具までは濡れていないが、襦袢は肌に張り付いていた。
ふと扉の方を見ると、白い服が畳んで置いてある。
手に取ってみると、今身に着けているのと同じものであった。
着替えまで出してくれるとは、と、レイナは笑った。
「着替えたら、今着ているほうのは、小窓から外に押し出せ」
あの女の冷たい声であった。まあ良い。男に見られるよりはましだ。
レイナはそれでも、扉からなるべく死角になる所に身を寄せ、単衣を脱いだ。結んである紐は、左手でたやすくほどけた。
膝と内腿に炎症があるのは、攻められたときの傷だ。その時、自分の陰毛に違和感を覚えた。
いつも下帯からはみ出さぬように、濃くはないが広めに生えている陰毛を少し剃っているのだが、昼間見たときは、やや伸びているかな、という程度で、剃ったところとそうでないところの区別がついたのだが、今は境界がわからなくなっている。腋の毛も、だいぶ伸びている。
ということは、あれからさらに、かなりの時間、眠っていたことになる。
真新しい単衣を羽織る。紐は何とか結べたが、固結びになってしまった。次は解けないだろう。まあ良い、着たままでも、不便はない。
何度も「まあ良い」を意識の中で繰り返していることに、彼女は気付いた。妥協している自分がいる。もう、生命の危機が去り、現状に甘んじている自分に苦笑した。
それが<蜂>の意図なのかどうかはわからない。だが、責めを受けたことも、囚われていることも、彼女にとってはそれほど重要なことではなくなっていた。<蜂>に対する敵愾心もない。今はただ、アジーと伴に陽の下に放たれることが最大の関心事になっていた。
思えば、後の彼女の身の置き方を決定する下地がこの時すでに出来上がっていたのであった。ただ、今はだれも、そんなことを夢にも思わないのではあったが。
「よほど強い思いを内に秘めていたんでしょう、二人とも」
若い男が言った。
「互いの無事を確認した途端、激しく抱擁しましたから」
それを聞いていた女――オルウェナは含み笑いで答えた。
「責められている間に気づいたのでしょうね、自分の思いに。わたしがあの若い男の事を口にした途端、彼女は人が変わったかのようだったもの」
レイナを責めていた冷たい声の主は、オルウェナであった。
普段の彼女は、愛くるしいという表現がふさわしい、うら若き乙女なのだが、拷問をさせると、〈艮〉でさえ顔を顰めるほど徹底していた。今回の責めなど、生易しい方であったと、後にこの若い男〈颯天〉――ディゼットは述懐している。
「責めて吐かせるやり方は参考になった?」
オルウェナは微笑みながらディゼットに問うた。
「笑いながらそんなこと言わないでください。背筋が寒くなりますよ」
「〈薔薇〉には無理だけど、あなたならできるよ。〈酉〉の衆だって、こういうことは一通り心得ていなければいけないよ」
「それはそうですが……」
そういって、かれは座敷牢の方を見た。先日までアジーが囚われていた独房の隣の区画をにらむ、赤毛の少女がいる。ディゼットと伴にレイナ達捕縛に加わっていた少女である。彼女の見つめる先にある牢屋に、一人の少年が閉じ込められている。
「彼は責めるなと言われましたが、その理由は教えてはいただけないのですね」
すると、オルウェナは口を尖らせた。
「教えようにも、わたしも知らないのよ。ご隠居からの指示だから」
ご隠居とは、モフを指していた。
「ご隠居は何かご存知かもしれないけど……」
「おおもとの指示は〈梔子のお局〉から、というわけですか」
「大体そんな所でしょうね」
〈子〉の副長級であるオルウェナさえ知らせられない秘密が、あの少年にはある、ということなのか。
〈能力者〉だという事は聞いた。でも、それを超える秘密があるのには、間違いないのだ。
全ては〈梔子の局〉の御意のままである。彼自身、まだ会ったことのない人物。オルウェナも二度しか会ったことがないという。
普段はどうやって生活しているのか、全く不明である。城の〈梔子の間〉に隠棲しているので〈梔子の局〉の異名をとる人物。
今の彼には、上からの指示に従うほかなかった。それが〈蜂〉の一員たる自分の役目である。彼はそう考えて、詮索をしようとする気持ちを鎮めようとしていた。
目覚めたことは自覚していたが、違和感があった。
そうだ、私は、アジーの命と引き換えに、屠られるはずだ。
でも、今目覚めているということは、まだ生きているのか。
窓から陽光がさしているようで、濃い象牙色の窓幕は黄金色の光に縁どられている。
日は高く昇っているようであった。窓辺には熱気が籠っていた。
起き上がろうと手をついて、激痛を覚えた。右手の中指から手首にかけて包帯が巻かれている。
手当がされている。常識的に殺す人間のけがの手当はしないだろう。ということは、自分は「生かされている」ということである。
脳裏にアジーの面影が浮かんだ。
まさか、アジーが代わりに屠られたのか。
蜂の女は、約束は守るといったではないか。どういうことなのだ。
部屋を見回してみる。
四角い部屋の一面には、半間四方ほどの窓がある。部屋は、全てそこから差し込む光とその反射光に照らし出されている。直行する壁と天井は杉板張りのようである。
床は畳であった。その上に夜具が敷かれ、レイナは横たわっていたのであった。
起き上がって窓幕を少しめくってみる。硝子窓であったが、その外には目の細かい格子が嵌め込んである。その向こうには半間ほどの空間、そして、安山岩のような黒い石組の壁が見えた。
畳を持ち上げてみようとしたが、やめた。窓に格子が嵌っているくらいだから、床も塞がれているに違いない。
窓に対する壁面。そこには小さな潜り戸がある。木製だが、鉄板で補強されている。
部屋の広さは四畳半ほどで、窓の横には衝立が置かれている。見ると、雪隠があった。
座敷牢なのであった。
ふと、自分の着衣を見た。
厚手の晒し木綿の襦袢のみで、肌着も下帯も着けていなかった。その襦袢も、前の袷を三寸ほどのひもで三か所留めるようになっているだけで、帯は着けていない。
夜具ですら、厚手の不織布と毛布で作られている。包帯も、よく見ると、不織布で、糊のような物質で保定されている。
紐や、紐状に加工できる衣類は排除されているのであった。
扉の向こうに人の動く気配がした。鍵を開ける音が聞こえた。
「食事です。自分で下の窓を開けて取り出してください」
若い男の声だった。言葉は丁寧であったが、事務的な口調であった。
「アジーはどうなったか、教えてくれないか」
レイナは努めて平静を装って尋ねた。
「質問は一切受けません。悪しからず」
威圧的な命令口調よりはましであるが、やはり、口調の冷たさに変わりはない。
囚われの身である以上、こちらは受け身の立場しか許されていない。それは仕方のないことなのだ。
ただ、アジーが殺されてしまったのなら、自分も舌を噛んで死ぬ覚悟は、できていた。
だが、もし約束通り、アジーが逃がされていたなら、死にたくはない。生きて再会したい。彼の胸に飛び込んでいきたいと思うのであった。
しかし、今はそれを知る手だてもない。
状況から鑑みるに、この先彼女を待つ運命は、二とおりしかないと思われた。
一つは、公開処刑。これは考えられることであった。
もう一つ、それは、二人とも見逃されること。
これも、考えられなくはなかった。
<蜂>はむやみに<十字星>を殺さない。
しかし、蜂にやられたとみられる躯も見つかっている。だから、これも確実ではない。
言われるまま小窓を開けると、質素ではあるが、一通り整ったまともな食事が、膳に並べて差し出された。
白米、炙ったえぼ鯛の干物、香の物は、蕪の浅漬けと、大きな梅干しである。それに、椀物は茄子の味噌汁。どれも湯気を立てるほど熱い出来立てである。味噌汁を一口すすると、山椒のほのかな香りがした。
武家のごく普通の、いや、ある程度上家の朝食である。
食事のみを見れば、客人の扱いであった。
レイナは冷静に考えることにした。
処刑する者に与える食事にしては、厚遇ではないか。逆に、屠られる者への温情とも受け取れるが。包帯も丁寧に巻かれているし、鈍痛は残っているが、顔を顰めるほどの痛みは、今のところない。
利き腕は使えなかったが、左手をある程度使える訓練をしてある。レイナは左手で箸を操り、干物の骨を剥がしにかかる。焼きたての干物の骨は難なく身から剥がされた。
骨に張り付いている、皮のような内側の身を剥がして、元の身の上に置く。その向こう側に、きれいに剥がされた骨を置く。
囚われの身であるが、食事の作法は守りたいのであった。
裕福ではなかったが、武家の誇りを重んじる家であったと、レイナは幼い頃を思い出していた。
厳しかったが情には厚い父。病弱だったが、決して暗い顔を見せなかった母。一人子ではあったが、友達も多く、寂しさは感じなかった。
だが、あの事件以来、彼女は世間の冷たさを嫌というほど思い知らされた。
父は公金横領の容疑で投獄され、獄死したのである。
病死のわけがなかった。拷問で死んだのであろうが、ついにそれは公表されなかった。容疑は直ちに事実に変えられた。死人に口なしで、彼女の父にすべての咎が振り向けられたのである
だが、彼女の家は取り潰されなかった。温情裁定だということだったが、後の噂では、その裁定を下した評定所の長官の友人が、横領の張本人だったのである。濡れ衣をかけた詫びのつもりか、身代わりになった父への罪悪感からかは知らない。母は父の死後半年も経たぬうちに亡くなった。すっかり衰弱していたからであった。
まだ十歳だったレイナは、とある商家の養女に迎えられたが、養女とは名ばかりで、学校へ通えたこと以外は実質下働きと同じであった。
彼女が十三歳の時、その家の主が彼女に手を付けた。激しい抵抗も空しくなすがままにされるしかなかった。
だが、二度目の時、彼女は用意してあった簪で主人の目と男根を刺して逃走した。計画した逃走であった。
逃走先は、学校の教師の家。この女教師が、実は十字星の情報屋であった。レイナの明晰さを知っており、事情も知るところであったから、次に何かあったときは、と指示を与えておいたのだ。
レイナの主人は以前から年端もいかぬ娘に手を出す悪癖があり、今回の事件でそれが明るみに出ることとなった。今までも幾度か悪行が日の下にさらされる危機はあったが、全ては金の力で闇に葬ってきたのであった。
主人は一命は取り留めたものの、寧ろ、死んでしまった方がよかったかも知れなかった。蟄居を命じられ、息子が家督を継いだが、元より放蕩息子で全く役に立たないため、番頭が一切を取り仕切り、今は父同様蟄居の憂き目にあっている。
事後の全ての情報は、レイナ自身が探り当てた物であった。
その事件以来、レイナは十字星で学び、鍛えられ、やがて手下を何人も使う地位になっていたのである。
凌辱を受けたあの日以来、男を一切遠ざけて生きてきた。アジーにしても、役目はそつなくこなすものの、男としてはまだ頼りないだけに、異性として意識したこともなかった。
それが、今こうして運命共同体になろうとは、昨日までは夢にも思っていなかった。
昨日、という言葉が思い浮かび、思わず緊張した。
本当に昨日か。実は幾晩も眠っていたのではないか。
普段剃刀で毛をあたっている部分を指で探ってみた。一晩で伸びる長さではなかった。丸一日、あるいは二日は眠っていたようであった。
はしたない仕草に我に返り、再び膳に向かう。責められて押し広げられた股関節の痛みは少し残っていた。縛られていた腕も、かさぶたが固くなっている。そして、無性に腹が減っていた。
己の生を意識した途端、空腹を感じる自分に苦笑した。
まさか、こんな牢屋の中で、飯をうまいと感じようなどとは想像だにしていなかった。今、彼女は目の前の膳の食べ物を口に運ぶことに集中していた。
気を失う前まで、己の命を投げ出す覚悟を決めていた人間だとは思えぬな、と彼女は苦笑した。
膳の物を平らげ、小用を済ませると、再び眠気が襲ってきた。もしや一服盛られたのか、と思い、意識を集中する。だが、落ちてしまうものでもない。単なる眠気のようであった。小窓の向こうで、膳が下げられる音がする。続いて、木の盆に載った水と包薬が小窓から出てきた。
「化膿止めと痛み止めだ。飲まないのも自由だが、飲んでおいた方が良いぞ」
さっきの男の声ではなかった。責めを受けていたとき、背後から聞こえていた、あの女の声だ。
「なぜ殺さない」
とっさにレイナの口をついて出た言葉であった。
向こうの人物の気配は、しかしそれを無視して遠ざかっていった。
水の碗は、厚手の白い樹脂でできており。割れそうな代物ではない。
癪ではあったが、素直に従うことにした。
そして、自然に訪れた眠気のまま、午睡に落ちた。
次に目覚めた時、牢の中は暗かった。ただ、間接光で天井が仄明るく照らし出されていた。
目が回る感覚があるが、痛みは軽くなっていた。日中の薬のせいかと思われた。
汗で体中が粘つくような感触であった。しかし室温は汗ばむ程には感じられない。寝汗であった。
夜具までは濡れていないが、襦袢は肌に張り付いていた。
ふと扉の方を見ると、白い服が畳んで置いてある。
手に取ってみると、今身に着けているのと同じものであった。
着替えまで出してくれるとは、と、レイナは笑った。
「着替えたら、今着ているほうのは、小窓から外に押し出せ」
あの女の冷たい声であった。まあ良い。男に見られるよりはましだ。
レイナはそれでも、扉からなるべく死角になる所に身を寄せ、単衣を脱いだ。結んである紐は、左手でたやすくほどけた。
膝と内腿に炎症があるのは、攻められたときの傷だ。その時、自分の陰毛に違和感を覚えた。
いつも下帯からはみ出さぬように、濃くはないが広めに生えている陰毛を少し剃っているのだが、昼間見たときは、やや伸びているかな、という程度で、剃ったところとそうでないところの区別がついたのだが、今は境界がわからなくなっている。腋の毛も、だいぶ伸びている。
ということは、あれからさらに、かなりの時間、眠っていたことになる。
真新しい単衣を羽織る。紐は何とか結べたが、固結びになってしまった。次は解けないだろう。まあ良い、着たままでも、不便はない。
何度も「まあ良い」を意識の中で繰り返していることに、彼女は気付いた。妥協している自分がいる。もう、生命の危機が去り、現状に甘んじている自分に苦笑した。
それが<蜂>の意図なのかどうかはわからない。だが、責めを受けたことも、囚われていることも、彼女にとってはそれほど重要なことではなくなっていた。<蜂>に対する敵愾心もない。今はただ、アジーと伴に陽の下に放たれることが最大の関心事になっていた。
思えば、後の彼女の身の置き方を決定する下地がこの時すでに出来上がっていたのであった。ただ、今はだれも、そんなことを夢にも思わないのではあったが。
「よほど強い思いを内に秘めていたんでしょう、二人とも」
若い男が言った。
「互いの無事を確認した途端、激しく抱擁しましたから」
それを聞いていた女――オルウェナは含み笑いで答えた。
「責められている間に気づいたのでしょうね、自分の思いに。わたしがあの若い男の事を口にした途端、彼女は人が変わったかのようだったもの」
レイナを責めていた冷たい声の主は、オルウェナであった。
普段の彼女は、愛くるしいという表現がふさわしい、うら若き乙女なのだが、拷問をさせると、〈艮〉でさえ顔を顰めるほど徹底していた。今回の責めなど、生易しい方であったと、後にこの若い男〈颯天〉――ディゼットは述懐している。
「責めて吐かせるやり方は参考になった?」
オルウェナは微笑みながらディゼットに問うた。
「笑いながらそんなこと言わないでください。背筋が寒くなりますよ」
「〈薔薇〉には無理だけど、あなたならできるよ。〈酉〉の衆だって、こういうことは一通り心得ていなければいけないよ」
「それはそうですが……」
そういって、かれは座敷牢の方を見た。先日までアジーが囚われていた独房の隣の区画をにらむ、赤毛の少女がいる。ディゼットと伴にレイナ達捕縛に加わっていた少女である。彼女の見つめる先にある牢屋に、一人の少年が閉じ込められている。
「彼は責めるなと言われましたが、その理由は教えてはいただけないのですね」
すると、オルウェナは口を尖らせた。
「教えようにも、わたしも知らないのよ。ご隠居からの指示だから」
ご隠居とは、モフを指していた。
「ご隠居は何かご存知かもしれないけど……」
「おおもとの指示は〈梔子のお局〉から、というわけですか」
「大体そんな所でしょうね」
〈子〉の副長級であるオルウェナさえ知らせられない秘密が、あの少年にはある、ということなのか。
〈能力者〉だという事は聞いた。でも、それを超える秘密があるのには、間違いないのだ。
全ては〈梔子の局〉の御意のままである。彼自身、まだ会ったことのない人物。オルウェナも二度しか会ったことがないという。
普段はどうやって生活しているのか、全く不明である。城の〈梔子の間〉に隠棲しているので〈梔子の局〉の異名をとる人物。
今の彼には、上からの指示に従うほかなかった。それが〈蜂〉の一員たる自分の役目である。彼はそう考えて、詮索をしようとする気持ちを鎮めようとしていた。
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