小説第1話②

 二

 蜩の声が、紫の重ねに彩られた空に染み込むように聞こえていた。「北の対」にある厨では、宴の用意も終盤を迎えていた。この「グレイ屋敷」の新たな住人を歓迎する席が設けられたのである。
 母屋である本殿の一階、三十畳程の広間には塗の箱膳が、円を描いて八膳並べられている。上座も下座もない。男用と女用、それぞれ四膳ずつが交互に置かれているのであった。
 飲み物と前菜がそれぞれの膳に整ったところで、背の高い中年の男と、小柄な老人がまず席に着いた。二人とも白髪に近いが、中年男性の方は生まれながらの銀髪なのであった。続いて女性が四人。そのうちの一人はシャラであった。
 最後にイスミルとランドウが、白い前掛け姿の小柄な女に案内されて席に着いた。二人は並んで座ろうとしたが、間にシャラが座る形になった。
「ここではこの様式が決まりなので、面食らっておられるだろうが、お許し願いたい」
銀髪の中年がイスミルにそういって、軽く礼をした。この人物がアームントである。
「いえ、郷に入らば何とやらです。なかなか結構な趣旨と承りました」
 そう答えたイスミルは、中肉中背で、むしろやや痩せ気味の体格である。長い黒髪を結わえて後頭部で留めるのは、それまで彼の住んでいた土地の習俗であった。ランドウはまだ元服前なのでシャラと同様の散切り髪である。
 イスミルは席についた一同を見渡した。自分の左隣がシャラ、その隣がランドウ、続いて座るルシリナ=リンレイは、まだ少女の面影を残す若い娘であった。その左の老人はアームントの父モフ=グレイ。彼が最年長者であるからか、本来のこの部屋の上座にあたるところに座している。続いてシャイナとアームントの夫婦。そして一周して自分の右隣に座った女性はエリナ=ウリュー。栗毛の髪に青い瞳の彼女は、清楚な身なりにしてはいるが、漂う色香は只者ではない、とイスミルは感じた。若くして死んだ妻も美人であったが、エリナとルシリナは、所謂、市井の美女とは異なる雰囲気を発している。
 モフを除く七名が、この屋敷に暮らす成員である。モフはこの屋敷の設計をし、当初はここに住んでいたが、今はオーマル城外丸、御庭番長屋の一角に戸建ての家を構えている。
 この屋敷の今の当主であるアームントが、宴の開始を告げた。しかし、改まった開会の辞ではなく、「では、始めよう」といった程度の軽いものであった。各々の自己紹介はもう済んでいたので、敢えて形式張る必要もなかった。
 先付は八寸に盛られた二点盛りが前菜として供されている。親指大の小ぶりな鱒の押し寿司にコゴミの胡桃和えであった。コゴミは少し季節が遅いと思ったが、聞けばこの時期まで採取できる自生地があるとの事。
 エリナがイスミルに酌をする。イスミルも返杯をする。彼の表情は、美女を前にしても鼻の下を伸ばすようなところがなく、しかし恐縮しているのとも違った。ごくごく自然に異性に対しての態度をとっている、とエリナは感じた。イスミルの年齢は三十八歳。エリナの十歳年上であった。
 イスミルも、エリナの美しさばかりでなく、その振る舞いの優美なことに感心していた。やはり、素人の雰囲気ではない。このような寛いだ席でも、隙がないのだ。動き一つにしても、目線の配り方、手の仕草、言葉遣い、いずれもかなり修練を積んでいる。
 彼女はそういう仕事をしているのだろう。だが、今はそんなことはどうでもよかった。こうして出会い、酒を酌み交わし合う縁を得ただけで、十分だった。彼女のことは追い追いわかるだろう。
 そこへ、先ほど案内をしてくれた小柄な女が、他の二人の女に指示を与えながら、二の膳を運んできた。豆腐の田楽、オクラと茄子と鮎の天ぷらの三点盛り。それに吸い物であるが、具として短めの素麺を結んで泳がせてあったのにイスミルは驚いた。亡き妻が時々作ってくれた料理である。
 オルウェナは藍色の手拭いで、鮮やかな金髪を姉さんかぶりに包んでいる。その手拭いに控えめに染め抜かれた紋を見て、イスミルは瞠目した。それは、オーマル城の御庭番衆の紋であった。
 エリナが女に話しかける。
「悪いわね、こんなことあなたにさせてしまって」
 しかし女は笑みを浮かべて答える。
「いいんですよ、むしろ、わたしが進んで引き受けたんですから。どうか御気になさらずに」
 女の名はオルウェナというらしい。会話の内容から、御庭番衆でも要職にある人物のようであることがわかった。
「御庭番の方が今日の料理をなさっているのですか」
 イスミルは、思い切ってそのオルウェナという若い女に尋ねた。
「はい、大公殿下からの直々の御達しで、今日の宴を取り仕切らせていただいております」
 膳司(かしわでのつかさ)が食材を持ち込んで屋敷の北の対にある厨で料理をしているそうだ。
 その会話を聞いていたランドウが、父に尋ねる。
「私は何も聞かされていないのですが、どうして、私たちのような者を、大公殿下は歓待してくださるのですか」
 一瞬返答に躊躇したイスミルに代わり、シャイナが答えた。
「あなた方をこの地に招いたのは、他でもない大公家ですから、大公家がもてなすのが当然とお考えなのよ。それ以上のことは、パディア殿下に直接伺うしかありません」
 パディアはガレリィ大公家の嫡男で、今年十八歳。父ユージン=ガレリィを補佐して将軍職にある人物であった。彼の職務には、オーマル城をはじめとするガレリィ家の城や屋敷の管理も含まれている。
「父上はご存じだったのですか」
「大公家に招かれたことか。それは聞いていた。だから最初から城に招かれたのだよ」
 今日、城内でシャラと語り合っていたことを思い出した。自分が城内に招かれた疑問などどうでもよいほど、シャラと語らい合ったことは幸福な出来事であった。
「忘れてた。シャラにあの答えをまだ教えてもらっていなかった」
 城の水浴場の掃除をしていた理由であった。
「そうだったね。実は、見返りとして、水を張った最初にあの水浴場で泳ぐ権利を頂いているんだ。パディア殿下直々にね」
 あそこは大公家かその賓客専用の施設である筈だ。
 ここで、ランドウは一つの推論に達した。
「もしや、シャラはパディア殿下の…」
 我知らず独りごちたらしい。側で聞いていたルシリナがそれに答えた。
「殿下の友達だというのは、皆が知っている。でも、許嫁ではないわよ。」
 そして黒く大きな瞳でランドウの目を伺った。
「嫉妬した?」
「殿下にですか? そんな、大それたことを…」
 ランドウが動揺を隠そうとするあまり、かえって動揺しているのが、ルシリナにはおかしく感じられた。しかし、少年をからかうのは彼女の本意ではない。
「シャラは、ランドウ君とはもう友達になったの」
と、話をシャラへと向けた。
「はい、わたしは、もう認めてもらっていると思っています。ただ…」
 シャラが少し口ごもったので、ルシリナもランドウも、そして周りで聞いている大人たちも耳をそばだてた。魔が忍び込んだように、突如、場を沈黙が包んだ。
「…できれば、彼を綽名で『ランディ』と呼ばせてほしいのです」
 そう言ってシャラは赤面した。それを聞いたランドウも俯いてしまった。
「どんどん呼んでやってください。むしろわたしの方からお願いしたい」
 イスミルが柔らかな口調でシャラに語りかけた。決して芝居がかった口調ではない。父親としての心からの願いであった。
「まあ素敵。よかったわね」
 ルシリナが二人に囁いた。
「私たちも、ご子息を綽名で呼んでよろしいかしら」
 そう言ったのはエリナである。
「そうしてください。その方が、この子にはよいでしょう」
 一同から、朗らかな笑いが上がった。
 しかし彼らの和んだ宴を背に、オルウェナが、緊迫した面持ちで<電話機>で連絡を受け取っていた。そして側に控えていた若者に二言三言指示を与えた。若者は音もなく闇に消えていった。彼女は何事も無いそぶりで次の皿を運びながら、シャイナに目くばせした。シャイナも音もなく立ち上がり、廊下に出て厨のある北の対への渡り廊下に立った。
 オルウェナがすぐ寄ってきた。
「何者かが侵入しているようです。しかし姿は見えないかもしれない、と、これは<梔子局(くちなしのつぼね)>からの伝言です」
「わかった。<能力者>かもしれぬ、ということだな。私は戻らねばならぬ。万事任せた」
「御意」
 間もなく数名の男が厨の外に現れ、そして四方に散った。先程オルウェナから指示を受けた若者の顔もあった。
(能力者を使っているのであれば、<灰神楽>の手の者かも知れない。しかし、こんな手口で探りを入れてくるのは<十字星>のやり方だわ)
 いずれにしてもこの宴を妨害されるのは避けたい。侵入者が一人二人なら、アームントとシャイナの二人がいる以上、下手に手出しはしてこないだろう。だが、侵入者の手引きで暗殺集団が襲撃をかけてきたら、何とも言えない。
 しかし、今日は特に御用地の警備に力を入れているのにも拘らず、不審者の侵入を許したのは自分の失策だ。オルウェナは唇を噛んだ。
 そのころ、当の宴の人々は、シャイナを除いてそんな事態になっているとは露知らず、歓談をしていた。
 イスミルは。エリナだけでなく、ルシリナにも独特の雰囲気を見出していた。やはり素人と違う隙のなさである。黒髪に黒い瞳、白磁のような肌の彼女は、いかにも物静かな令嬢のような印象である。話す際にも伏し目がちで人と視線をほとんど交わさないのだが、その視線を向けてきたときの圧倒的な目力の強さに驚かされた。瞳に吸い込まれそうになる感覚を覚えたのである。それは、ランドウが女性に不慣れだという話題になった時である。シャラ以外の女性とも話す機会を増やすべきだとイスミルが語った際に、
「では私もこちらに居るときは、ランディと話すようにします」
 そう語って彼女はこちらを見つめたのであった。普通に話してもよい内容なのに、彼女の口調には、何か内に秘めた思いが感じられた。後日、彼女には可愛がっていた弟がいたのだが、音信不通であると聞かされた。その弟とランドウは同い年である。自分の弟をランドウに重ねて可愛がることが憚られたが、許されるのであれば、という心情であったのだろう。
 言葉遣いや立ち振る舞いもエリナに通じるものがある。この二人は同じ生業であると直感した。
 その彼女が、イスミルと話した直後にふと気を外したように思われた。この宴の外に注意が向いている。厨の方ではない。正門に続く中庭の方に目を向けている。いや、正確には、中庭の方向の、この座敷の一角を見ているのだ。イスミルも目を凝らしたが、何も発見できない。
「どうしましたか」
「いえ、ちょっと」
 その時、席を外していたシャイナが戻ってきた。そしてルシリナの仕草に目が留まった。
「何か見えたの」
「ええ、人影のようなものが、座敷の隅に」
 でも、そんな所に誰かいたら、他の人の目にも留まるはずである。
「やはり、何かいたのか」とアームントも答える。
「先程から、誰かの気配がしていたのだが、外にいる御庭番の面々とも違うし、何かと思っていたのだ」
 シャイナも神経を集中する。
「何も感じない」
「ああ、今は私も気配を感じない。出て行った、のかな」
 シャイナは手を二回叩くと、一同に呼びかけた。
「出て行ったのなら問題ないでしょう。外も御庭番衆が見回っているし、心配ありません。続けましょう」
 それを合図に次の膳が運ばれてきた。箸休めである。湯葉の磯部巻と、拍子木に切った山芋の葛餡かけであった。食感の対比を楽しませようという趣向であろう。
 一座の中で最長老のモフだけは、皆の会話に耳を傾けてはいるが自分から話そうとはしていなかった。ルシリナが不穏な気配を感じた時も、注視してはいたが何も語らなかった。その彼が、空いた膳を下げて戻ろうとするオルウェナに何やら手短に話しかけているのをイスミルは見た。その途端、それまで緊張していたオルウェナの表情が一瞬緩み、軽く、しかし慇懃に会釈をした。モフは何事も無かったように小鉢を手に取ったが、イスミルの視線が向いているのを認め、すると莞爾としてイスミルに話かけた。
「何もお気にかけずとも大丈夫です、イスミル殿」
 そう言われてイスミルは恥じ入る口調で答えた。
「これは失礼いたしました。どうも職業柄、人の仕草とか話に気を引かれてしまいますので」
「なに、結構なことです。そうでなければ見廻組の御用は務まりませんからな」
 ミリヤ公国の守護を担う<千人組同心>の参謀として、かれはこの地へ招聘されたのであった。彼はもともと優秀な同心ではあったが、人に先んじるのを良しとせず、前の勤めであるサガン領の見廻組(警察組織)では重職・要職とは縁のない地位に甘んじていた。
 以前、警察組織は家柄によって役職を世襲するのが通例であったが、かつての王国が瓦解し七つの公国に分かれた頃から、能力重視の風潮に変化してきた。
 一介の武士階級であり、要職にもなかったイスミルが、ミリヤ公国の軍事・警察組織である千人組の参謀に大抜擢されたのには、それなりの理由があった。
 モフとの会話はそれきりで終了した。歓迎の意を表し親睦を深めるこの宴の趣旨に合わないからであった。
 それ以降は事も無く宴が続いた。主菜となる三の膳は、飯物と焼物、煮物、香の物が一度に出るというのが最近の傾向であったが、ここでもそれに倣ったようだ。碗に盛られた白飯には、赤紫蘇を刻んだふりかけが一つまみ盛られている。焼物は鹿肉かと思ったが、風味が全く違うので尋ねると、牛肉だという。切り餅ほどの大きさの肉塊を遠火で炙り、塩と胡椒だけで味を付けてあった。肉自体の旨みが重厚なために、他の味をつけると邪魔になるためらしい。これは、シャラに尋ねられたモフが答えた事である。シャラも牛肉は初めて口にしたらしい。
 珍しく父親の酒が進んでいるな、とランドウは感じた。もともと飲めない口ではないのだが、普段は控えているのを知っていた。隣にエリナが座っていることは、それほど酒量に影響があるようには見えない。この場の雰囲気がそうさせているのだ、とランドウは思った。
 イスミルの会話の相手は、その時アームントに移っていたが、勧められるままに杯を口に運んでいた。ただし、嘗めるようにちびちびと、である。むしろアームントの方が磊落に杯を干していた。
 自分がしでかしてしまった事件のせいで、父にはかなり辛い思いをさせていた。免職させられても不思議ではなかったのだが、謹慎のみの処分であった。それも、謹慎を命ぜられた翌日には、もうこの地への異動が告げられたのであった。
 亡き母の旧知の老夫婦がカイラ家に出入りして、家事を手伝ってくれていたのだが、その老夫婦と共にガレリィ家からの使いという若い男が訪れた日であった。
 そしてその翌日、すなわち謹慎三日目に父は辞職しそのままこの地へ向かったのである。そう、昨夜のことである。
 今、なぜ自分がこの場にいるのか、わけもわからず実感も伴っていない。夢にしては長すぎる。隣で微笑む少女も美しい「お姉さん」も、実は幻なのではないか。
「ランディ、疲れているのかしら」
 ルシリナが見詰めているのに少年は気付いた。
「急に引っ越しが決まって、夜通し車で移動して、だったからね。かわいそうだったね」
ルシリナも、事情は把握しているようである。
「大丈夫です。ただ、こういう場に慣れていないので…」
 ランドウがそう答えると、ルシリナは悪戯っぽい表情に変わった。
「あら、お愛想なんて子供らしくない。正直に言っていいのよ」
「ランディが困っています、姉上」
 上気した頬のまま、シャラがルシリナを嗜める。姉と呼んでいるが二人は姉妹ではない。互いに姉、妹のように慕いあっているのだ。
「食事が終わったら、お風呂に入ってすぐに休んだ方がいい。そうそう、ここのお風呂の使い方の決まり、まだ教わっていないよね。誰が教えるのかしら」
「心配いらぬ。今日はイスミル殿と二人でゆっくり<大きい方>に入ってもらうさ。細かいことは明日、明日」
 そう言ってモフがルシリナを遮った。
「一緒に入る、とか言い出しかねないからな」
「あら、いいじゃありませんか。ランディはまだ女湯に入ってもいい年齢ですし…」
「刺激が強すぎるわい」
 ランドウは彼で、ルシリナやシャラと一緒に風呂に入る情景を我知らず想像して、恥ずかしさのあまり項垂れていた。
 他愛のない会話が続き、食事も〆の果物が供されていた。一口大に切り分けられた芳香の強い瓜が二切れ。甘味は軽いが、肉の後に食べると、口の中が洗われるようにさっぱりする。
 何者かが侵入していたことなど、もう誰も気にも留めていないかのようであった。
 ただ、オルウェナだけが、先刻モフから耳打ちされた言葉を心に留めている。
――すべて梔子の方のおっしゃる通りになっている。
 あとは<艮>(うしとら)に任せておけばいい。
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