面影桜

森田カオル


 
 他人から見た私は、私の母の付帯物に過ぎないのだ、と女は思っていた。人が彼女を呼び表す名称といえば、「小式部(こしきぶ)」か「和泉式部(いずみしきぶ)の娘」であった。それはまだ良い方である。いつぞやなど、「あの和泉の娘」と言われているのを耳にした。その声の方に向き直ると、某とかいう地方帰りの男がこちらを見ていた。品定めする目つきであった。身体の血が逆流するかのような感覚に襲われた。この時は、傍にいた越後弁(えちごのべん)がするりと彼女の前に割って入り、「放っときなさい。あんな男に腹を立てても益のないことですよ」とやんわりと制したから何事もなく済んだ。
 窘(たしな)めたのが仲の良い越後弁だったのは、恥をかかずに済んだ反面、恨みがましい気持ちもないではなかった。紫式部(むらさきしきぶ)の娘である彼女は「小紫」とか「紫の娘」ではなく、父上の任地に因んだ「越後」と呼ばれている。以前から、各女房の居所である曹司(ぞうし)には母子で一緒に暮らしてはいるが、出仕したのは紫式部が女房職を辞した後である。母君と入れ替わりに出仕したので、私のように母子で女房を務めているのではないから、と理由をこじつけてはみるものの、釈然としない。
 どう抗おうとも彼女は「小式部」であって、それ以上でもそれ以下でもないと認識されているようであった。それは権中納言(ごんのちゅうなごん)の子を産んだ今となっても変わってはいなかった。所詮は妾である。
 母と共に中宮彰子(あきこ)に仕えるようになってからというもの、彼女には周囲から浴びせかけられる視線に耐えるという仕事が付いて回った。これは男性からだけでなく同性からもであった。そしてその視線は、必ず和泉式部の姿を透かして小式部を見ているのであった。
 「それはあなたが麗しい方だからですよ、美子(よしこ)殿」
 越後弁藤原賢子(ふじわらのかたこ)はそう言って慰めてくれる。彼女だけが、小式部と呼ばずに本当の名で呼んでくれる人物であった。もっとも、それは二人きりで話をしているときに限られていた。他の女官や殿方のいる場では、さすがの彼女も小式部としか呼んでくれない。それは仕方のないことである。小式部の本当の名など誰も知らないし、知ろうとも思わないのである。内裏にあっては、母と越後弁以外、彼女を「小式部」という名でしか認識してくれないからである。
 「お母上も麗しい方ですが、あなたも引けを取っていませんからね。容貌も、歌も。私や母の好みということで申し上げれば、母上のお歌よりも、あなたの歌のほうが素敵ではないかと思います」
 お世辞を言わない人物だけに越後弁の優しさは、重たかった。容貌。それは母より若いから。若いだけが取柄ではないのか。まして歌は母に及ばないのは自分でも分かっている。技術ではない。あれだけその心情を赤裸裸に歌い上げる芸当は、自分には、できない。
 
 父の顔は知らない。物心付いた頃、もう家には通わなくなっていたらしい。橘(たちばなの)某とかいう名前だというのを知っているだけであった。その代わりに父以外の殿方は何人も知っている。幼いながらに家に通い続ける男たちが発散する、あのねっとりとした気味の悪い気配は、思い出したくない。彼らは決して彼女に親愛の情を向けようとはしなかった。きっと母以外は眼中になかったのだろう。彼女が来訪者の気配に気付いて屋敷の片隅で気配を殺しているときは、かなり大胆に母の居所にまで踏み込んできた。その反面、たまたま母と共にいるときにやってきた彼らは一様によそよそしく、そのまま帰ってしまうことも少なくなかった。
 中にはやんごとなき方々も通ってきて、そういう人々とは母も暫く付き合いが続いたようであった。母も、もちろん人を見る。それはしかし、打算ではなく、本当に心が掻き乱されるかどうかであったようだ。
 今でこそ恋も知り男女の機微も解するようになった。しかし、宮中に出仕するまで、男とは一様にああいった行動様式を取る生き物なのだ、と彼女は信じて疑わなかったのであった。
 敦道(あつみち)親王がお隠れになった後、出家まで考えていた母が、左大臣道長(みちなが)の力で中宮彰子に出仕した際、娘である彼女も共にお仕えすることになった。腰まで伸びた髪をようやく束ねられるようになった、十一歳のことである。その当時、中宮の周りには紫式部を始め、名立たる歌詠みが仕えていた。自分のような若輩、というより子供がそのような錚錚たる顔ぶれの中に迎え入れられることに戸惑いを覚えたのも、無理はなかった。まだ年若い中宮とはいえ、ひと回り近く歳の離れた自分は、遊び相手には幼すぎるだろうし、まして学問をお教えする立場ではない。せいぜい小間使いである。実際、ひたすらに雑事のみに追われている女房が大半である。自分も雑事に追われて暮らしていくのかと考え、鬱鬱としていたのであった。
 紫式部はどちらかといえば寡黙な女性であったが、いたいけな少女の悩む姿を見ては、時折優しい言葉をかけてくれた。
 「あなたの才能はたいしたものですよ。自信をお持ちなさい。和泉殿は面と向かって誉め難いのでしょうけどね。私にもあなたと同い年の娘がいるの。だから、和泉殿のお気持ちもよく分かります。あなたの母上は、わが娘を弄ばれるような扱いをされるような所には連れては来ない方ですよ」
 その言葉どおり、中宮も局の女房たちも小式部には温かく接していた。中宮の傍で講義が行われるとき、ほぼ必ず小式部も同席していたし、貝合せのお相手も時には仰せつかった。年下の女房に対する気安さもあったのだろう。皆が目をかけてくれているのが感じられた。
 しかし、局の外ではそのようなわけにはいかなかった。
 人の目が、これほど怖いものだとは。思春期を迎えた少女に、「和泉式部の娘」という肩書きは残酷に付いて回った。藤原定頼(ふじわらのさだより)のようにちょっかいをかけてくる若い貴族は、軽く往なしておく技は身についたが、老練な宮中の貴族たちに抗う技量はまだ持ち得ていない。
 そのうち殿方に対抗するだけの力も付きますよ、と紫式部は言っていたが、母は過保護にしてはいけないと考えたのか、付き添うことは少なかった。娘一人、あるいは他の女房と共に外へ出すばかりで、娘を庇護しようとせぬことがほとんどであった。
 たった一度だけだったが、和泉式部が娘を庇う出来事があった。
 小式部が中宮の権大夫教通(のりみち)と歓談していたときのことである。
 教通は左大臣道長の五男で、この時は正三位に昇格し、若いながらも将来を嘱望されていた人物である。まだ大納言公任の娘と結ばれる前のことであった。
 清原(きよはらの)某という東国帰りの役人が、二人を遠巻きにしたまま聞こえよがしに言ったのが、おおよそ次のような内容であった。
 「権大夫殿と親しげに話などして、いい御身分だな。母親譲りで、やんごとなきお方にくっつくのが得意で結構なことですな」
 もちろん和泉式部への皮肉もあったからだろうが、自分への言葉なら、彼女もあそこまでは激昂しなかっただろう。清原某も、当の和泉式部が近くにいたとは災難であった。つかつかと男の背後に回りこみ、扇で顔を隠そうともせず、白塗りの顔に皹が入るのも厭わず、目を見開いた形相で、
 「あなかま」
 と一言叩き付けると、よくもあんなに素早く動けるものだという程に踵を返して部屋へ入ってしまった。
 清原某は魂を抜かれたような表情のまま、これも鼠のような迅速さで逃げ出した。
 些細な事件だったゆえに、宮中の噂にも上らない事件ではあったが。
 
   二
 
 小式部が宮中で暮らすようになって六年が経った。
 他の先輩女房たちと同じく彰子の信頼も得、こすっからい貴族たちの中傷もそれとなく往なせる術も身に付いた。
 母和泉式部には、新しい夫ができた。左馬権頭藤原保昌(ふじわらのやすまさ)という無骨な男である。武人ながらも歌に通じており、道長の薦めもあって母も身をかためるつもりになったようである。今まで母が求めてきた男性とはやや毛色が違うが、これくらい頼もしい男が母の傍に居てくれた方がむしろ娘にとっては好ましい。
 もっともこの保昌という人物、本人はともかくその同胞の方はというと、良い噂はなかった。
 陰ではその噂をするものも居るが、しかし当人は左大臣の家臣として信も厚く、盗賊の頭目といわれる弟も都の辺りに居るわけではなく、噂は噂で放っておくのがよいというのが、同じ局の女房たちの意見であった。
 宮中へと目を転じれば、一条帝が身罷(みまか)られ居貞(いやさだ)親王が即位するも、病に冒されていた。左大臣道長は今上天皇の後を継ぐ皇太子として、一条帝の第一皇子敦康(あつやす)親王ではなく、彰子と一条帝の子敦成(あつなり)親王を帝位につける画策をしていたのであった。
 「皇太后様はお優しい方ゆえ、敦康殿下が立太子を阻まれたことに、心を痛めていらっしゃるのです」
 和泉式部は娘にそう語ったが、小式部も同じ思いであった。
 ただ、現実は敦成親王が皇太子になったが故に、彰子皇太后の一派の繁栄は約束されたようなものである。左大臣も近いうちに摂政かそれに次ぐ地位を得るであろう。
 
 小式部自身は、というと、蕾が花開くように、年頃を迎えて美しい女性へと成長していた。
 軽薄男の藤原定頼を始め、言い寄ってくる若い貴族も少なくはなかったが、心を動かされる男は一人だけであった。
 しかし、その意中の男性、権大夫改め三位権中納言教通は大納言公任の娘を妻に迎えてしまった。
 「それで、諦めるのですか、小式部殿」
 筆を休めに自分の居所から出てきた紫式部が、塞ぎ込んでいる小式部に語りかけた。
 「殿方の取り合いはしたくありません」
 「和泉殿のようにはなりたくない、と言うのですか」
 秋に入り、陽が落ちるのも早くなっていた。宵闇が迫ってくる空を見上げ、小式部は溜息をついた。
 「母は母、私は私です」
 紫は意味ありげに笑うと、小式部の傍らに腰を下ろした。
 「母親と自分を比較して行動を決めるのは、賢いことではありませんよ。『私は私』と言うからには、自分の気持ちに素直にならなければいけないのではないかしら」
 小式部は俯いた。
 紫式部は言葉を続けた。
 「残酷なようだけど、私たち女には、将来を選ぶ権利はないわ。地位のある殿方と結ばれて子供を授かり、家を繁栄させていくしか、生きる道はない」
 小式部は黙っていた。
 「私だって例外ではない。ただ、私は今書いている物語を、生きているうちに書き上げる仕事が加わっているだけ。この仕事があるから、泡沫(うたかた)のようなこの世の中でも、自分の存在をこの世にとどめてゆける」
 「貴女程のお方が言われることとは思えません。あなたなら、既に名を知られているではありませんか」
 小式部の問いかけに、紫式部は首を振った。
 「百年も経ったら誰も私のことなど覚えてはいない。私が今ここに存在していることすら、存在していたことさえ、不確かになってしまうでしょう。賢子も嫁に行けば、私の行き場もなくなってしまう」
 脳裏に、幼い頃の思い出が甦った。
 空は、今日と同じような夕空だった。夏の名残の蝉が一匹、どこかで鳴いていた。遊び疲れて家に戻ると、その頃しばしば通ってくる男性が部屋に上がり座っていた。姿は見えないが、奥には母がいるらしい。美子は蔀の陰に身を潜めた。そのうち、男が躄(いざ)りながら奥へと消えていった。男女の荒い息遣いが聞こえてきた。
 見てはいけない。美子は目を瞑り耳を塞いだ。冷たい空気が少女の周りに流れ込んできた。
 居場所のない、痛みのような心細い感情が、血液の代わりに彼女の体内を駆け巡っていた。
 行き場がない……。
 小式部は紫式部を見た。
 「近いうちに女房として上げるつもりなの。私が辞めてからの後任としてね。私自身だけでなくあの子の行く末も考えてやらなければならないわ。良い嫁ぎ先が見つからなければ、むざむざ年老いて死んでいくだけですからね。あの子を『枕の少納言』のようにはさせたくない」
 物静かな彼女にしては珍しく、強い口調であった。
 「枕の……清少納言(せいしょうなごん)殿のこと、ですか」
 「そう。よい噂ではなかったわ」
 先の皇后がお隠れになってから、そういえば清少納言の噂を耳にしたことはなかった。紫式部もそれ以上は語らなかった。会ったことはないが、十数年前には知らぬ人のない有名人である。
 「あなたも、今のうちに嫁ぎ先を見つけておいた方がいいわ。若くて美人で賢いあなたなら、その気になれば、良い縁があるわよ」
 常々自分に目をかけてくれる彼女の箴言ではあったが、母の存在を払拭できはしなかった。母と同じことをしてはいけないのだ。教通様はもう妻も子も居る御方だ。他の殿方が私の前に現れるまで、繭の中の蛹になるしかない。小式部はそう誓うのであった。
 
 しかし、その繭から羽化する時期は思いの外早く訪れた。
 まだ霜も降りない頃であった。ある朝、左大臣の縁者が尋ねてきた。小式部は人物とはまみえなかったものの、皇太后との話し声を耳にすることができた。
 「では、間違いないと……」
 「さようでございます。永らくお会いしませなんだが、見間違いはございません」
 「まあ、なんと痛ましいことでしょう。才女の誉れの高かった少納言が、苫屋暮らしなど……」
 「それでございます。一時はどこかの方と添われたとの噂も聞きましたが、いや、今は川原乞食と差はございません」
 紫式部が言っていたのは、このことだったのか、と分かった。身寄りを持たない女の末路が目に浮かんだ。
 襤褸を纏い、破屋同然の家に寝起きし、満足に食事も摂れず、草を摘んでは口に運んでいる老婆の姿であった。
 その顔は、小式部自身であった。
 そうして、その後、小式部の元に再び通ってきた教通を、ためらいもなく受け入れたのである。それも、これらの経緯(いきさつ)があったからに他ならない。
 正妻の居る方でもよい。妾でも良い。子を授かれば、その子の元に居られよう。まして思い続けてきた方の子である。母のように心のままに行動することを、彼女自身の心をも、受け入れることができた。
 翌年正月、早々に三条(さんじょう)天皇が譲位し、敦成親王が帝に就いた。道長は准摂政、そして時を経ず摂政を拝命した。道長、我が世の春であった。
 同じ年、小式部も男子を産んだ。無論、教通との子である。
 
   三
 
 紫式部の娘、越後弁が彰子の女房に加わったのは、小式部が男子をもうけた翌年のことであった。出産のために暇を貰っていた間のことである。同い年だが、小式部より二寸ほど小柄で華奢な彼女は、一つ二つ若く見えた。
 母親の面影もとどめる飄飄とした雰囲気の女性である。
 相変わらず気の強い小式部と、何事にものんびりとしている越後弁とは、不思議と気が合うようであった。もっとも小式部にしてみれば母親の代からの付き合いである。母子とはやはり似るものなのであろう、自分と和泉式部とを重ねてみて、ようやく紫式部の言わんとしていたことが腑に落ちた。
 私と母は、似ている。
 これは受け入れざるを得ない真実であった。とはいえ、未だに母と自分とが一揃いで扱われることもまだまだ多く、歌詠みとして知られるようになってからというもの、むしろ以前よりも辛辣になってきた嫌いさえある。
 すなわち、和泉式部が娘の歌を代作しているという噂である。
 むろん、同じ局の女房たちは、母子が近くに居合わせているからといって代作をしているなどとは思っていない。噂を耳にしても、庇うと却って相手の興をそそるだけだと割り切っており、何も口出ししない。
 やがて、藤原保昌が丹後守に任じられ、それに付き従って和泉式部も丹後に下向することになった。紫式部が去り、母も内裏を離れる。頼みにする者も少なくなっていた。
 そのような時期に、越後弁という同志を得たことは、小式部には幸運だった。同い年同士、忌憚なく話ができるし、成長してきた若い貴族たちとの交流に際しても、彼女には心強い味方であった。
 以前からちょっかいをかけてきていた藤原定頼は、厚かましさに拍車がかかったようで、二日と開けず局にやってきては小式部たちをからかってゆく。一時は小式部に言い寄ってきたこともあったが、彼女は体よくあしらって追い返していた。近頃は、小式部に脈がないとようやく気付いたのか、むしろ越後弁に声をかけてくるようになっていた。
 「私は何しろ子持ちですし、同い年とはいえ初々しい賢子殿とお近づきになった方がいいのでしょうけど、相変わらず人をからかう性格、どうにかならないでしょうかねぇ」
 そう愚痴をこぼすと、越後弁は
 「暇なのではございませんかしら」
 そう言って、思わず二人で笑い合った。
 
 事件は程なく起こった。
 宮中の歌合せが行われるにあたり、丹後に下った和泉式部の代わりに小式部が役目を受け持つことになった。これには太皇太后となった彰子の推挙もあった。歌合せを受け持つだけの力量を認められてのことである。
 その当日、普段どおりに他の女房たちと語らい合っていると、これもいつもどおり、権中納言定頼が局の部屋に顔を出した。相も変わらずにやけた表情で部屋を一望し、最後に小式部の顔に視線を止めた。その口元が異様に吊り上るのを小式部は見た。
 「これはこれは小式部殿、歌会で母君の代役をなさるとか」
 小式部を始め部屋中が彼を無視した。
 「ところで、御遣いの方はもう戻られましたかな」
 小式部は怪訝な表情をしたらしかった。次の言葉を聴いて、彼の話術に乗せられたことに気付いた。
 「丹後からの御遣いですよ。あれ、もしかして、頼み忘れていらっしゃるのではございませんか。それはそれは大変ですな。いや、大失敗ですよ。こんな大事な日に母君のお作りになった歌が用意できていないとは」
 それだけ言い捨てると、妙に身体を揺り動かしながら部屋を立ち去った。
 逆上しそうになる心を制しながら、小式部はすっくと立ち上がった。
 誰も止めなかった。いつもならなだめ役を買って出る越後弁の眉も吊り上っていた。他の女房も目に怒りの炎が揺らめいていた。
 小式部は両手で几帳を派手に捲り上げると権中納言の背後を追った。
 ただならぬ気配に彼が振り向くと、にらみつける小式部の瞳があった。
 一瞬、沈黙が場を支配した。が、小式部が静寂を破った。
 「……大江山」
 地の底から響いてくるような詠唱だった。
 「いく野の道の 遠ければ……」
 陰陽師の呪文のようにも思われた。定頼の表情からみるみる血の気が引いていった。
 「まだふみも見ず……天の橋立」
 定頼は既にこの時、魂を吹き飛ばされていたのであった。返歌を詠もうということすら思い至らなかった。魔物の手から命からがら逃げ出すように這う這うの体で去っていった。
 彼の姿が視界から消え去ってから、小式部はその場にへたり込んだ。咄嗟に浮かんだ歌だったが、自分の気持ちは充分に歌えたと思った。
 越後弁が歩み寄り小式部の肩を優しく抱いた。
 「お見事でした、美子殿」
 いつもは飄飄としている彼女が、満面の笑みを浮かべていた。
 「今日の歌合せは素晴らしいものになりそうですね。今日からはもう誰も、母君が代作をしているなどと言わなくなりますよ」
 
   四
 
 今年も春が廻ってきた。
 池の畔に立つ枝垂桜の花も盛りに近く、また、それに向かい合うように群れている里桜は、水面に花びらを散らせ始めていた。
 幾人もの男性と恋をしたが、今年、ようやく自分を正妻に迎えてくれる人にめぐり会うことができた。もう二十代も半ばになっていただけに、うれしいというより安堵の気持ちに近かった。
 保昌と共に丹後へ下っていった母の思いが、分かってきた気がする。子供は女の私だけだったから、いずれは身寄りのなくなる身であったわけだ。紫式部の意見も、今は身にしみて理解できる。
 紫式部といえば、娘の越後弁も、あの定頼なんぞとの噂はあったものの、どうやら落ち着くところに落ち着きそうである。
 もっとも噂は立ったが当人はその気はなかったようで、純粋に歌の仲間としての交わりだったようである。
 風が吹いてきて枝垂桜の枝を揺らした。水面には淡く青い空を背景に薄紅色の影がゆらりと映っている。その上を里桜の花びらが渡ってゆく。そして、それを見ている小式部自身の姿も、一幅の絵の中に納まっていた。
 「百年も経ったら誰も私のことなど覚えてはいない。私が今ここに存在していることすら、いえ、この世に生を受けていたことさえ、不確かになってしまうでしょう」
 いつか紫式部が自分に語って聞かせた言葉を思い出した。この桜も命が尽きれば枯れていく。いずれは代わりの木が植えられ、やがて忘れられてゆく。この水面に映る影と同じで、儚いことに変わりはない。この桜は実生の木ではないがゆえに、接木でよその株に移されるしか生き延びる術はない。
 池に映る自分の面影に別れを告げ、彼女は歩き始めた。
 木は枯れても、歌に残せば、後世の人に、あそこにああいう桜があったのだ、と思ってくれる。自分も歌を詠み、夫の子を産んで、この世に生きていた証を残したい、と願うようになっていた。
 ようやく最近は、和泉式部の娘ではなく、小式部という一人の女房として人が見てくれるようになった。私と母は確かに似てはいるが、運命共同体ではない。別々の個性なのだ、と自信を持って思えるようになってきた。
 桜の歌を詠もう。詠まれては空に消えてゆく歌ではなく、後世の人に口誦され続ける歌を。桜だけではない。いずれは消えてゆく儚きものたちを、歌わなければならない。
 小式部は思う。物語をしたため続けている紫式部が心に点している炎。それと同じものを、自分も持ち始めたのだ、と。
 
 だが、運命の神は残酷にも、まだ数え二十七の小式部の命を奪っていってしまった、この世に生まれ出た赤子の命と引き換えに。万寿二年の晩秋のことであった。
 彼女の思いは半ば叶えられ、半ば叶えられなかったようである。「小式部内侍」の名と数首の歌は後世に残ったが、それ以外の歌は散逸してしまった。
 彼女の本当の名前は、誰も分からない。
 
 完
 
【参考文献】
 人物叢書 新装版『和泉式部』山中裕 吉川弘文館 1987.6.1
 『田辺聖子の小倉百人一首』田辺聖子 角川書店1989.10.30
 『桜の文学史』小川和佑 文芸春秋 2004.2.20
 『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』山本淳子 朝日新聞社 2007.4.25
 「ウィキペディア」http://ja.wikipedia.org
 「風俗博物館ホームページ」http://www.iz2.or.jp
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