小説第1話④

「そうだ、あれは、確かに不自然だ」
 〈不夜楼〉から二百メートルほど離れた黒塀に、男と女が溶け混むように身を潜めている。
「こんな夜中に二人でこっそり、とくれば、逢引とか駆け落ちというところだろうが、見てみろ、どう見たってそんな間柄にはみえねぇ」
 女は紫の頭巾で表情は読み取れないが、連れの男に対して明らかに上段からの物腰で接している。とても言い合った仲には見えない。
「なあ〈鷲〉の人。悪りぃがここでお別れで頼む。この若い二人は確かに俺が引き受けた。〈山〉に事の次第を知らせてくれねぇか」
 男はそう言って、四十がらみの、少し小太りの男の顔を見た。男は愛嬌のある表情を浮かべると、右手の指で丸を作って見せた。
「了解。後は頼むよ〈艮〉の人」
 そう言うが早いか、その体型からは想像もつかないほど素早く、そして静かに、〈鷲〉と呼ばれた男は姿を消した。

 若い二人――そう、まだ十代の青年と少女は、黒塀の男女をじっと見守っている。
 そこはクロスの町の北、俗に黒塀呼ばれる地区である。その名の通り、黒塀に囲まれた一帯で、〈不夜楼〉を中心とする色町である。
 クロスは純然たる宿場町でありと商業地であるが、対して黒塀は純然たる歓楽地である。クロスは町の南側に住宅地が広がるが、黒塀は、クロスからの大通り以外には、周囲に建築物は無く、塀の外側は灌木に囲まれ手織り、その外側はブナやシラカバなどの落葉樹林が広がるのみである。
 〈艮〉たちは、灌木の陰から、不審な二人連れを監視していたのだ。
 やがて、二つの人影はすっと闇に溶けた。
「行くぞ」
 〈艮〉がそう言うが早いか、三人もその場からさっと姿を消した。

 ここは、高原に続く山裾で、深夜にはある程度涼しくなるのだが、まだ宵の口と言ってもよい時刻である。日中の火照りがまだ漂う闇は、粘性を帯びて体にまとわりついてくるようだ。
 前をゆく男女は気配も消さず、真っ直ぐにどこかへ向かっているようである。向こうが艮達に気付いていないのであれば、あまりにも素人くさい。
「相変わらず、こういう事は下手くそだ」
 〈艮〉は苦笑した。
 あの二人が何の目的で夜中に動いているのか、それは今はわからない。しかしこんな時分に、逢い引きでも駆け落ちでもない男女が闇に紛れて行動しているのは、誰が考えても、如何わしい。
 〈艮〉が覆面をすると若い二人も倣った。間を置かず男女の方も動き出す。三人も音もなく後を追う。一旦二人の姿が闇に消えるが、艮は迷わず暗がりの道を辿る。
 車の扉を開く音。その瞬間艮が若い男の方に指示を出す。
「加速して止めてこい」
 若い男の姿が消える。間を置かず鈍い金属音。驚き慌てる小さな叫び声。
 二人連れは何が起こったのかわからぬまま、その場から逃れようとした。
 その男の首筋に峰打ちを与えたのは艮であった。女の方も、背後から何者かに叩かれた、と感じた刹那に、意識を失っていた。
 車の中にもう一人、小柄な中年男がいた。彼も車を捨て逃走にかかる。が、彼も天地が逆転する感覚を覚えた後、昏倒した。
「間違いねぇ、<十字星>だな」
 車内から飛び出した男の顔をあらためた〈艮〉が呟く。知った顔であった。
「〈薔薇〉よ、念のために二人とも縛っておけ。こっちの男は、逃がして問題ない」
 〈薔薇〉と呼ばれた少女は素早く紐で男女の手足を縛りあげた。その間、少年は周囲を警戒していた。
「〈艮〉、誰か来ます」
 殺気が近づいてくる。姿を現す前からこんなに殺気を発散しているようでは、大した使い手ではない。が、油断は禁物である。〈十字星〉は飛び道具を使う連中を増やしたという情報が〈艮〉の耳にも入っている。
「伏せろ」
 〈艮〉が言った瞬間、空気を割いて唸る砲弾が頭上を掠めた。続いてもう一発。少し間をおいて、同様に二発。
「〈颯天〉は俺と来い。〈薔薇〉はこの二人を盾にしてここに居ろ」
 男たちは身を低くして走り出す。



 彼らを狙撃したのは、ガタイの良い二人の男であった。
「三人とも、やられたみたいだな」
 申し訳程度の顎髭を生やした男が言う。
「相手が〈蜂〉だとしたら、命までは取られちゃいねぇだろうが、捕まったとなりゃ、面倒だわな」
 もう一方の、旋毛の辺りが禿げ上がった中年男が応える。
「後腐れの無いように、一緒に殺っちまうか」
「あくまでも、不可抗力としてな、巻き添えってことにして」
 と話していた二人の表情が凍りついた。
「おい、野郎二人がこっちへ向かって来るぜ」
「おめぇは背の高いほうのを殺れ。俺は、もう一方を…」
 ここまで話して、二人はその次の言葉を失った。
「野郎、どこへ消えた!」
 注視していたはずの二人の姿が、忽然と消えた。隠れたのかとも思ったが、間に視界を遮るものはなく、かといって灌木の陰に隠れたようにも見えなかった。真っ直ぐこちらへ向かってきたその姿が、一瞬で消えたのだ。
 禿頭の脳裏に、ある男の姿が浮かび上がった。
「まずい、レイモンだったら、勝ち目がねぇ。ズラかるぞ」
 と禿頭が言った時はすでに遅かった。ちょび髭は白目をむいて横ざまに倒れた。
(馬鹿な、いくらレイモンでも、この距離をこの時間で詰めれれるはずがねぇ)  
 禿頭は戦慄した。相手がレイモン=サイレンなら、手筒では太刀打ちできない。素早く腰間から白い刀身を走らせて正眼に構える。
 不意に四、五メートル先に、背の高い男が出現した。ちょび髭が狙うはずだった方だ。間髪置かず禿頭は斬りかかる。背の高い男はわけもなくその刀を躱す。
 蹈鞴を踏んだ後、向きを変えようとした刹那、後頭部に激しい衝撃を食らって、禿頭はもんどりうって倒れた。
 男の背後に、いつの間にか〈艮〉が立っていた。
「こっちの禿は、可愛そうだが消えてもらおう。こいつは俺を知っている」
 〈艮〉は刀の鞘から畳針のようなものを引き抜くと、禿げ頭の首筋に、何気なくすっと差し込んだ。禿げ頭は一瞬痙攣すると、二度と動くことはなかった。
「後は〈卯〉さんたちがやってくれる。俺たちは引き上げるぞ」
 その五分後、そこには気を失った一人の小柄な中年男と、前輪の片方が壊れた車を残し、人の姿はすっかり消えていた。
 時期を間違えたのか、気の早い草雲雀が一時鳴いて、また静かになった。







 鼻腔口腔に水が流れ込んで目が覚めた。呼吸をしようとしてそれが気管に入る。苦しい、激しくむせると、水は吐き出された。前髪から幾つもの水滴が瞼の間に入ってくる。頭から水をかけられていたらしい。意識を失っていたようだ。
 周囲は薄暗かった。部屋は窓もなく。たった一つの電灯のみが、室内を照らしている。
「囚われたのか」
 女は理解した。椅子に座らされてはいるが、両腕は後ろ手に、背もたれに縛り付けられている。服は脱がされていたが、肌着はそのままのようだ。
 室内は蒸していたが、気が遠くなるほどではない。
 自分に水をかけた者は、背後にいるようだ。
「状況は、わかっているかな」
 女の声であった。
 囚われた女は、答えなかった。
 急に後ろから顎をつかまれた。
 むせ返して口を開けていた女は、無理やり歯の間に板のようなものを噛まされた。完全に口を、歯を合わすことができない。舌を噛み切られないための猿轡であろう。男の手のようだ。
「まず、名前から言ってもらおうか」
 抑揚のない話し方である。
 囚われた女は、黙っていた。
「悪いことは言わない。黙っていても、いずれわかる。無駄に苦痛を味わうだけだぞ」
 床から浮いていた女の両足が、不意に何者かにつかまれ、左右それぞれに引き開けられた。女は悲鳴をかみ殺そうとしたが、猿轡のせいで、嗚咽となって漏れてしまった。
 両足はそれぞれ、椅子の両脇の太い柱に荒縄で縛り付けられた。
 その膝の上に、砂の袋を振り分けに結び付けてある紐が載せられた。
 膝が拉ぐと同時に、縛られた足首もねじれ始める。
 女は努めて意識を失ってしまおうとした。
「我慢も無駄。我慢しても、わかってしまったら、我慢のし損だぞ。〈十字星〉の情報屋、イタムロのレイナ…」
 女は我が名を呼ばれて我に返る。
「黙っていても、損だと言ったろう」
 相変わらず姿を見せずに後ろから、無機質で抑揚のない声が聞こえてくる。すぐ耳元で囁きかけているようにも聞こえるのだが、しかし、側に居る気配がない。
 レイナと呼ばれた女は、自分の名が割れたことに訝りつつも、しかしそれだけしか分かっていないのではないかという推測があった。面が割れていて、名前だけは知っている者が、この組織――おそらく<蜂>――に居るのかもしれない。
 女の声は、しかし相変わらず、感情の感じられない口調で問いかけてくる。
「単刀直入に聞こう。どんな情報を得たのだ? それさえ話してくれれば、すぐにでも解放しよう、お前の連れも一緒に」
 脳裏に、行動を共にしてきた、若い男の面影が浮かんだ。男の名は、アジー。無論、本名ではない。レイナという我が名も、本当の名前ではない。
「しかし、話さねば、共に消えてもらうことになるかもしれぬ」
 蜂が、十字星の情報屋を消したという話は、しばしば耳にしていた。だが、消えた情報屋の亡骸を見た物はない。たまに、消えた筈の人物によく似た者を、どこそこで見かけた、という話はあった。
 無機質な声の主の言葉は、単なる脅しに聞こえた。
 しかし、その時、後ろ手に縛られた彼女の右手が荒く掴み上げられ、次の瞬間、指先に激しい痛みを感じた。痛みは次第に強い鈍痛と刺痛となり、彼女の全身を駆け巡った。悶絶する彼女の声は、猿轡に遮られ、くぐもった呻きとなって狭い室内に響いた。
「爪の間に、剃刀を差し込んだのだ」
 女が囁く。
「話さなければ、全ての指に差し込むぞ」
 苦痛から逃れようと、レイナは身をよじり、叫び声を上げようとする。しかし、激しい痛みをごまかせるほどではなかった。
「痛いか?痛いはずだよな。我慢するのが、好きなら別だが」
 その言葉と同時に、さらに激しい痛みが指先を駆け巡った。レイナは絶叫した。猿轡すら効果がない。絶叫は彼女の全身を振動し、部屋の空気を共振させた。
 爪の間に刺した剃刀に、溶けた蝋が垂らされたのであったが、肉眼で確認できないレイナには何をされたのか分からなかった。声だけの女も、何も言わない。レイナの心に、恐怖が芽を吹き始めた。
「さっき、どんな情報を得たのか教えろ、といったが、実は、それについては、もうわかっていてな」
 急に口調を変えて、女が話しかけた。苦痛にゆがんだレイナの表情に、恐怖の色が現れた。
「アジーが口を割ったのだ。ある条件と引き換えで」
 攻めの手も止まった。つかの間、沈黙が流れる。
「彼は、お前を助ける代わりに、こちらの質問に答えてくれた。自分の命と引き換えに」
 レイナは目を見開いた、首を巡らせて、声の主を見ようとした。
「心配するな、約束は守る。ただ、こちらも条件を出した」
 女の声は、元の抑揚のない口調に戻っていた。
 レイナは、その言葉の続きを、全身を耳にして待った。
「どんな人物を使って探りを入れたのか、それだけは、彼は知らなかったようだ。で、交換条件だが」
 女はここで、一度呼吸を置いた。
「その人物の事を、お前は知っているな? それを話してくれたら、お前だけは解放しよう。だが、話さなかったら、この話は無しだ。アジーは助けるが、お前には消えてもらう」
 レイナは、言葉の裏を探ろうとした。本当に、アジーはそう言ったのか。取引に応じたのか……。あり得ない話ではなかった。一緒に居ても、彼の、自分に対する思慕の念をしばしば感じることがあった。無論、裏稼業の上司と部下である。色恋沙汰はご法度。アジーは自分の気持ちを漏らすことは一切なかったが、強い思いは、香料と同じで、体という器を通して滲みだしてくるのである。
 私が答えなかったら、アジーは助かる。しかし彼は、口を割ったのだ。組織から追われることになるだろう。
 いや、もしかしたら、私が死んだら、自ら命を絶つかもしれぬ。そういう男だ。
 レイナは、痛みに耐えながら、逡巡する。
「蜂」が知りたがっている事柄、それを自分は知っている。取引ができるか。こちらが提案したことを、「蜂」は飲んでくれるか。
 提案は却下されるかもしれぬ。こちらは囚われの身だ。だが、言うだけ言ってみよう。ダメでもともと。
「知っている」
 沈黙が流れる。
 猿轡を噛んだままの不明瞭な声で、レイナは訴える。
「だが、代わりにアジーを助けてほしい。私は、いずれ組織に追われる身となる。ここで生き延びても、同じこと」
 しかし、女の声はない。攻めの男も、後ろに立ったまま、動く気配はない。
 痛みは相変わらずレイナを苛んでいる。この苦痛から逃れたい気持ちも強かったが、自分の身代わりにアジーが殺められるのは、もっと辛いと思った。早く、楽になりたかった。
「わたしが何も言わなければ彼は助かるけど、いずれ刺客に追われる。だから、彼を、何とか助けてほしい。それなら、話す」
「よいだろう」
 以外にも、相手は簡単に要求をのんだ。
「約束は守る。だが、約束が履行されたかどうかは、お前は確認できぬが、よいのか?」
「かまわぬ」
「では、今ここで話してもらおう。おい、アジーを隣へ連れてこい」
 部屋の外で、気配が動いた。程なく、部屋の外を複数の乱れた足音が近づいてくる。
 聞きなれぬ男の囁き声。そして、いつも聞いている男の声。
「レイナ!」
 この男の声が、こんなにも懐かしく、そして、愛しいと思えたことはなかった。束の間の幸福。だが、すぐに現実が彼女を絶望の底に突き落とす。これかた、自分が知っていることを話せば、アジーは助かる。しかし、自分はすぐにこの世からいなくなる。
「あなたは生きてくれ!」
 不意に、目頭が熱くなり、頬を涙が滴り落ちていくのを自覚した。
 今になって、なぜこんな感情が湧いてくるのだろうか。努めて、男女の情を排除して生きてきたせいもある。強い自制心がなければ、この世界では生きていけない。
 だが、わが身に先のないこの時、押さえつけていた感情が放縦にわが身を駆け巡っているのであった。
 レイナは心の平衡を保とうとしていた。絶望へと落ち込んでいく自己を、アジーの生存への望みで引き摺り上げようとしていた。女としての幸せは何一つなかった二十八年の人生だったが、最後に、男の情けを受けずに、逆にその男を救って死んでいく。そのことさえ誰も気づかず、居なくなったということは、消されたな、と思われるだけ。ただ、アジーだけが真実を抱いて生きていくだろう。それで良いのだ。思い残すことは何もない。
「我々は、約束は守る。お前たちも、それは知っているはずだ」
 相変わらず無機質な女の声が念を押す。
「やめてくれレイナ!あなたが死んだら、俺が生きる意味がないじゃないか!」
 そう、あんたは、いつもそうやって、私の事を気遣ってくれていたっけ。今度はあたしが恩返しだ。あたしが居なくたって、生きていけるよ。直にもっと若くて可愛い娘が現れるさ……。
「アジーを黙らせてくれないか」
 激痛と、猿轡越しのせいで不明瞭な言葉は、しかし外の男に届いたようで、くぐもった呻き声とともに、アジーが沈黙したのがわかった。
 もう、彼に言葉をかけてやれないと後悔したが、しかし、彼の悲鳴を耳に残したまま死にたくはなかった。これでいい。
「猿轡を取ってくれ。舌を噛み切る意味がなくなった」
 しかし、その前に、後ろ手に縛られていた指先に、再び激痛を覚えた。思わず悲鳴を上げる。爪の間の剃刀が除かれたのであった。すかさず、その手に何やら液体がふりまかれたようだ。痛みがすうっと引いていく。別の男が猿轡を外しにかかるのと同時に、女の声がした。
「すぐ答えてくれ。指先に麻酔をかけた。時間が経つと、意識が薄れてくるからな」
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