小説第1話③

 三

 宴が始まったころはまだ明るかったが、八時を回るとさすがに闇が立ち込めてくる。
 モフの勧めでカイラ親子は湯に浸かっていた。
 屋敷の北殿の更に奥に湯殿がある。奥殿と呼ばれている棟である。奥殿は二棟あり、東側が道場で、西側が湯殿である。
 湯殿は杉材を主とした木造の建物で、広さは十二、三坪もあろうか。旅館の大浴場にも引けを取らぬ立派なものであった。中央部に檜の一本柱が立ち、それを境に手前が洗い場、奥に浴槽が設えてある。
「ほう、湯は掛け流しだな」
 滾々と湯船から溢れ、格子の嵌った排水溝に流れ去る湯を眺め、父は呟いた。
「贅沢ですね」
 息子が答える。
「湯の量が豊かなんだろうなぁ。ここの湯は、城内の御庭番長屋と同じ源泉を引いてあるそうだ」
 昨日まで住んでいた見廻組長屋に風呂は無かった。部下三人の小さな班の長に過ぎないイスミルは収入も程々。そこから彼が使っている情報屋や密偵へ渡す費えの一部を捻出していたのだから、むしろ困窮していたと言える。
 湯屋へも毎日は通えず、ランドウも剣の稽古後の汗を洗い落とすために川で水浴びをしていた。それもせいぜい秋口まで。冬は日中でも凍死する恐れがあったからだ。
 そのような暮らしをする少年たちを、裕福な家の者は「河童」と言って蔑んだ。しかもランドウは泳げないので「駄目河童」と揶揄されていた。
 あの事件も、そのような場で起こった。
「父上」
 ランドウが改まって父を見た。
「私のせいで、父上には…」
 しかしイスミルはそれを遮って言った。
「待て待て、また謝るつもりか。あの事ならもう良いと言っているだろう。むしろ、あの場で友を助けたお前を、俺は誇らしく思う。結果としてああなってしまったが、元はと言えば向こうに責めがある。もう二度と口にしなくていいぞ」
 ランドウは返さなかった。
「お前の気持ちも分からぬではない。悪党とはいえ、手にかけてしまうと後味の悪いもんだ。俺も今まで二度あった」
「…」
「でもな、そうしなければ守れない事もある。これからも、そういうことがあるかもしれない。その時は躊躇うな」
 父の言葉は重かった。父はお役目のことを自分に話したことは今までなかった。父が人を斬ったというのも、今初めて聞いた。
「心残りがあるとすれば、親しい人たちに挨拶できないまま来てしまったことだな。でも、後の事は任せろと殿下も言って下さった」
 夜逃げ同然で昨晩、長屋を抜け出してきたのであった。持ってきたのは母の形見などの貴重品だけで、僅かな調度品も衣類も全て置いたままなのである。その代り、置いてきたもの粗末な品々など惜しくないほど、上等な着物や真っ新の家具が用意されていた。
 父にしても、今までの御役目から考えれば破格の待遇で千人組同心の参謀に抜擢されている。むしろ今までが役不足だったのだ、とアームントが語っていた。
「生真面目に考えすぎるところは、お前の長所でもあり、欠点でもあるな」
父は饒舌になっている。酒のせいだけではないようだ。サガンに居た時には、いつも難しい顔をして、言葉数も少ない人物という印象だった。もっとも、息子である自分の相手をするときは力の抜けた優しい父親だったが。
 饒舌になっているところで、父に聞き出したいと思っていたことがあった。
「大公家が、なぜ私たちのような者を招いて下さったのか、父上はご存じなのですか」
 この問いに、イスミルはいったん口を閉じたが、やがてこう答えた。
「お前の母の両親、つまり御祖父さんと御祖母さんが、大公家にゆかりのある人なのだよ」
 祖父はすでに亡くなっていたが、祖母は健在である。祖母と言っても老婆ではなく、今年五十歳になったはずであった。母が健在だったときに、一度だけ、親子三人でその家を訪ねて行ったのを覚えている。ただ、ランドウも小さかった。視界の開けた山の中腹に立つ家だったのを覚えているだけで、それがどこの土地だったかは、全く記憶にない。父は知っているはずだが、今、そこまで聞き出すのは憚られた。
 父に聞きたいことはまだ幾つもあったが、今日はこれだけにしておこう。父も疲れているはずだ。さっき父の背を流した時、その疲れに気づいた。若干背が丸くなっていたのである。半月ほど前に父と湯屋に行った際には、そんなことはなかった。
「なあ、ランディ」
 今度は父の方から話しかけてきた。
「シャラって、いい子だな。お前、仲良くやっていけそうか」
「仲良く、と言いますと?」
「言葉通りだ。これからおそらく、四六時中顔を突き合わせることになるだろう。住まいも同じ棟だし、秋からは学校へも通うんだし」
 昼にシャラから言われた事を思い出した。でも、具体的にどんな生活になるのかなど考えてもみなかった。
「大丈夫だとは思います」
 取って付けたようにそう答えると、父は少し声を出して笑った。
「無理に答えなくていいよ。まだお互いよく知らないんだしな。でも、第一印象は、悪くなかったようだな。あの子もお前も、宴会では楽しそうだった。ルシリナ嬢がちょっかいかけてはいたけどな」
 浴槽側の壁は二つの小窓があり、鎧戸が嵌めてある。今夜は晴天なので、上向きに開いていた。夏場にしては星がよく見えた。標高が高いせいもあるだろう。
 脱衣場の方に人の気配がした。しなやかに入ってきたので女性だと分かったが、シャラであった。
 彼女は新しい寝巻と着替えを持ってきたと告げ、そのまま帰って行った。
 それを汐に、風呂を上がることにした。おそらく、後には女性陣が順番を待っているのだろう。それに早く床に就きたい気持ちも強かった。
 今夜はゆっくり休もう。久し振りに枕を高くして眠れそうだ。
 昨夜まで不安を抱えていたランドウは、とにかく今、安心して眠れることが幸せであった。今は先の事を考える気は全くなかった。
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