小説第1話①

第一部 クロス篇

第一章

 一

 男の子なのかと思った。
 その娘は、城の敷地の一角にある、脇の水を抜いた石造りの水浴場を、長柄の刷毛で掃除していた。
 白い汗衫の肩の広さや、後垂のない藍色の水着、金色の髪を短く刈った項の辺りは、子供から少女へと変貌を遂げる前の彼女を、少年と見誤らせるに充分であった。
 しかし、少年の気配を感じて振り返った面立ちを目の当たりにして、彼は誤りに気付いた。
「あっ。あなたがランドウ君だね」
 輝くように、彼女は微笑んだ。
「初めまして、シャラと言います」
 凛凛しく男口調で話しかけてきた彼女の、程よく日焼けした顔に白い歯が印象的だ。屈託のない愛らしさにランドウは不意を突かれて咄嗟に言葉が返せなかった。お辞儀がぎこちなくなっているのを少年は自覚した。とたんに胸が苦しくなった。落ち着け、と自身に言い聞かせた。
 しかしシャラの方はごく自然に、ランドウに関して聞いていたことを話し、もう少しで掃除も終わるから、それまで少し木陰で休むように勧めた。
 なぜ彼女がミレア大公家の別荘であるオーマル城の水浴場を掃除しているのか、彼は疑問に思ったが、しかし自分のような者がこの城に招かれた事に比べれば、不可思議な事ではないとも思われた。勧められるままに白樺の木立を背にした長椅子に腰を下ろし、水浴上の縁越しに見え隠れする彼女の髪や肩を眺めていた。
「手伝う事、何かあるかな」
 今更思いついてそんな言葉をかけるのも間が抜けていると思ったが、何も言わないよりはましだろう。彼は立ち上がると、再び彼女へ近づいていった。
 すると彼女は顔を上げ、先程のように微笑むと
「あ、それならお願いしようかな」
そう言って、水浴場の向こうにある散水管を指し、水栓を開けるときに、先が躍らないように水槽に向けて構えていて欲しい、と頼んだ。そして刷毛の柄を持ったまま、石積みの水槽の縁に設けられた石段を登って彼の傍らへとやってきた。
 頭の分だけ、ランドウよりシャラの背は高かった。
 少年の目の前には、ちょうど、膨らみ始めた少女の胸があった。目のやり場に困って目線を下ろすと、紺の水着に包まれた下腹部の曲線が目に入ってきた。さらに目のやり場に困った挙句、思い切って顔を上げ、彼女の顔を見ることにした。
 蒼天の下、深い夏木立と芝生の緑の中に金色の髪の少女が笑っていた。
「でも、さっきこっちに着いたばかりじゃないのかい。無理しないで、城で休んだらいいよ」
 男言葉だが、物腰は少女そのものだった。シャラのような型の少女は今まで知り合ったことがない。ランドウは少し戸惑いながらも、しかし彼女に好ましい印象を抱いていたのであった。
「それぐらいどうと言うことはないよ。それに、もう少し話もしたいし」
 女子に自ら話しかけている自分に、少年は我ながら驚いていた。自分の性分の事もあるが、最近彼の身に降りかかった事件を考えれば、積極的に他者に近づいていこうとしている自分の変化が意外であった。
 ランドウは散水管の口を持って少女の側へ戻った。そして彼女の背中越しに話しかけた。
「君は城のお庭番衆ではないよね。その君が、どう見ても、やんごとなき人達が使う水浴場の掃除をしている。これはどうして?」
 すると作業の手を止めて、シャラは振り返った。
「なぜだと思う? 当ててみて」
 悪戯っぽい笑みを浮かべてこう言うと、彼女はまた作業を始めた。
 質問に対して謎で返されるとは思っていなかった。不意を突かれてランドウは真面目に考え始めてしまった。
「何かの罰、ではないな。こんなに明るく掃除をしているのだから。ということは、何かの見返りがあるか、そうでなければ誰かの代わりなんだろうけど...。代わりだったら君じゃなくてもいいはずだ。違うかな?」
 するとシャラは再び振り返った。
「なかなかいい線に近づいているね。そのとおり、見返りがあるんだ。それは」
「それは?」
「後で教えるね。そろそろ水を出すから準備をお願い」
 それまでの男口調を崩して少女はまた笑った。
 はぐらかされた格好だが、不愉快ではなかった。初対面で固くなっている自分に対して、気取りの無い彼女の態度は有り難かった。
放水管から噴き出した水が石積の水浴場の壁面の汚れを流してゆく。自分の鬱屈した気分すら洗い落としていくようであった。
 梅雨の明けた空は青く、梢を透してくる陽光は揺れる斑の模様を地面に落としていた。もう肌寒さはなく、むしろ木陰の涼しさが心地よい。標高が高いせいもあるのだろう、大気まで透明度が高いように思われた。目に見える光景の隅々までもが鮮明であると、ランドウは感じた。
 その光景の中心に、シャラがいた。思えばこのとき既に、少年は少女に恋をしていたのだろう。
 シャラも、水を撒く手を休めてランドウを見た。こちらを見ている少年の瞳には、青空と、木々の緑と、山々の碧とが映り込んでいると彼女は感じた。
「もう終わるよ。手伝わせて悪かったね。ありがとう、助かったよ」
「自分から言い出したんだ、礼はいらないよ」
 池ノ端に立っていた少女は、木陰の少年のもとに歩み寄り、その左隣に腰かけた。
「ちょっと休ませて。まだ、戻らなくていいでしょ」
 シャラは時折女言葉に戻るのか、とランドウは思った。シャラの口調が変わるのはある条件があったのだが、彼はまだそれに気づいていなかった。彼がもう少し大人だったら自明であっただろうが。
 日差しは強かったが、ブナ木立の木陰は涼しく、風も乾いているようであった。
 さっき会ったばかりのこの少女が警戒もせず自分に近づいてくるのは、悪い気がしなかった。ただ、女の子のあしらいに不慣れなランドウにとっては、少々気を使う必要があるという面倒はあったが。
 少女は、少年の左肩にややもたれるようにしていた。
「もう、下の屋敷には行ったのかな」
 それは、ランドウ父子がこの地に到着して旅装を解いた、山腹の屋敷を指していた。寝殿造りと武家造を合体させたような建物であった。ランドウが答えると、シャラは彼の目を見つめて話を続けた。
「あなたの住む部屋、あの一角は『東の対』って言うんだけど、厠のある『北西の対』に一番遠いのが欠点なんだ。あなた、夜独りで厠に行けるよね」
 少し見くびられたような気がして、ランドウは眉をしかめた。
「ごめんなさい。大丈夫だって前提で話しているの。前にあそこに住んでいた人は、女の人なんだけど、寒い夜には厠が遠くて難儀していたのよ。男の人は大丈夫なのよね」
「大丈夫というのか何なのか、寝床から厠までそんなに歩かなきゃならないような広い家に住んだことがないからな。よくわからない」
 シャラの質問の意図がつかめず、ランドウは少しぶっきらぼうな口調になっていた。だが、次に彼女から発せられた言葉で、彼は暫くの間、まともに彼女の顔を見ることができなくなってしまった。
「厠が遠くて面倒なら、私の部屋に寝泊まりしてもいいよ。大丈夫、父上からもう了解も取り付けてあるんだ」
 ランドウは、赤面しているのをはっきり自覚した。半ば恐慌を来している自分を守ろうと、何を言い出すのだ、と非難めいた言葉を発しそうになったが、それも飲み込んでしまった、するとますます口が開かなくなってくる。
 シャラも、少年の反応に気づいた。シャラを異性として意識している。彼女には嬉しいことではあった。
 少女は少年を促して立ち上がった。今、城の蔵人司ではランドウの父イスミルと、城の御庭番頭であるシャラの母シャイナ、それからイスミルの新たな職場の上司になるシャラの父アームントが話をしているはずであった。
「さっきの答えは、屋敷に戻ったら教えるよ。父上たちに挨拶をしたら、一緒に戻ろうよ、わたしたちの家に」
 そうだ。この少女とは、同じ屋敷に同居することになるのだった。改めてランドウは認識した。彼女とはうまくやっていけそうではあるが、しかし、彼の心の底に燻る重い気持ちを抱えたまま、この天真爛漫な少女と付き合っていくことができるのか、不安が頭をもたげてきた。
 シャラが左手を差し伸べてきた。手を繋ごうという意思表示であった。ランドウは少し躊躇した、が、敢えて、求められるままに右手を差し出した。シャラの手は、自分と同じく剣を振るう者の手であった。
(でも私は、手を繋ぐ資格などないのだ。私の手は、穢れているのだから……)
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